ひまわり
3年前のLINEのメッセージに
「産前産後のお母さんたちの支援をしたい」
と書いていた。
「お母さんの伴走者を作りたい」と思ったのはいつからだったのか。
もうよく覚えていない。
ときどき思い出す、小さなわたしと母親の姿。
母が幼い妹をおんぶしている。
テーブルクロスは向日葵だった。私はその向日葵の柄が好きだった。
思い出す幼い頃の光景の中には、いつもその向日葵のテーブルクロスがある。
お母さんのことを想う。二人で笑ったこともあった。
でも理不尽に怒られたこともあった。
「お姉ちゃんなんだから」。
もっともっとこんなお母さんでいて欲しかったと思った日もあったし、
こんなお母さんでよかったと思った日もあった。
自分が大人になって気がつく。完全な母親なんていないこと。
子どもの頃の「大人はみんな完全なんだ」という思いこみから、
「完全な大人なんていない」と思えるまで、
自分はろくでもない親に育てられたかのような気持ちになったこともあった。
ろくでもなかった教師、ろくでもない母親。
もっとこんな親がよかったと思ったこともあった。
自分が母親になり、子どもの寝顔を見ながら時々思う。
「どうしてもっと良い母親でいられないんだろうか。」
そんな瞬間、母もこんな気持ちだったかもと思うことがある。
こどもが教えてくれることがある。
万歳して、気持ちよさそうに眠る姿は、どんなろくでもないわたしという母親でも、
「ママ大好き」と安心して眠っていることを。
夏の暑い日に扇風機に向かって、「あー」って声を震わせて遊ぶ自分の姿は、
どうみても愛されている子どもで。
おばあちゃんの布団に潜り込み、「きゃっきゃ」と笑う自分の過去を振り返ると
全てが恵まれて育ったような気がしている。
こんなお父さんでいてほしかった。こんなお母さんでいてほしかった。
でも、完成されない母親がいることを受け入れられた時、
これでいいのだと
すこしにこやかに穏やかな日々を過ごせるような気がしてくる。
急いでお母さんにならなくていい。100%じゃなくていい。
そう苦しんでいるお母さん達をサポートしたい想いのうらには、
いつかの子どもの自分とお母さんに「それでいいんだよ。」
って言ってあげたいからなのかもしれない。
仕事の途中のひまわり畑の風景。
こどもの頃の風景にどこかリンクした。
まぶしいくらい透き通るような向日葵を見て想った。
あのころのお母さんへ。