A Story of
Smiles = Nicori

vol.2 「梢さんときっちゃん」

梢さんときっちゃん

「ゆうちゃーん、きっちゃんって何年生まれやったっけ?…あ、2015年ですね、ごめんなさいね、いっつも忘れちゃうんですよ」
恥ずかしそうに笑いながら、桝田梢さんはきったくん(皆にきっちゃんと呼ばれている)が生まれた時のことや、家族の話を聞かせてくれた。陽当たりのいい部屋の向こうからは、きっちゃんを囲んで遊んでいるきっちゃんの父・ゆうきさんと、妹・ややちゃんの楽しげな声が聴こえてくる。

2015年9月、出産時に低酸素状態になったことが原因で、きっちゃんは脳性まひとなった。
脳性まひによる障がいには種類や程度があり、それぞれに必要となるケアが異なる。
きっちゃんの場合は、1日5~60回に及ぶ痰(たん)の吸引や、胃ろう(胃に直接栄養を注入する方法)での栄養補給、気管切開をしている部分の皮膚のお手入れなど。また、自分で体を動かすことができないので、床ずれや血行不良にならないよう夜間も数時間おきに体の向きを変えてあげなければならない。赤ちゃんのように抱きかかえての入浴や、オムツ換えも必要だ。
どのケアをしている時も…というよりケアをしていない時も常に、呼吸は苦しくないか・痛みはないか・顔色はどうか、などに配慮していなければらない。

「産後は何が不安とかってしっかりしたイメージはなかったんです。性格的に“どうにかなるかな”って思ってる自分と、すべてが不安な自分がいました。怒涛のように1日が過ぎて、気分が落ち込む暇もあんまりなかったですかね。ただ、医療的ケアがかなり多いし、ケアの内容によっては二人以上の手がかかることもある。平日は夫は仕事ですし、私一人だけではお世話が難しい。たぶん体力的にも精神的にも持たないだろうと思って」

梢さんは、きっちゃんがNICU(新生児集中治療室)を退院する前に、訪問看護をしてくれるところを探した。しかし桝田家が暮らす地域に、重度の障害がある子どもを看てくれる事業所が見つからない…そんな一部始終を友人として見つめていたのが、後に「にこり」を立ち上げることになる松丸実奈だ。

梢さんときっちゃん

二人の関係は、10代の頃に遡る。
自他ともに認める「ちゃらんぽらん」な学生だった松丸は、しっかり者の同級生・梢さんにたびたび助けられていた。
「助けるっていうか、何やってんだこの子は?って感じでしたね」
梢さんは松丸の若さゆえの苦々しいエピソードを、「言っていいのかな?」と遠慮しつつ大笑いしながら話してくれた。

「松丸さんはちゃらんぽらんだったけど、人柄が良くて。たとえば私が『あの人嫌いだな』って言うでしょ、そうすると彼女が『いやいや、あの人こういうところもあるやん』って、私が気づかなかったことを教えてくれる。おかげで私は嫌な人間にならずに済んだ。そんな風に、助けてるようでいつのまにか助けられてるようなところがあって。こんな感じなんです」
梢さんは両手をシーソーのように動かしてみせた。

「病院のソーシャルワーカーさんや相談支援員さんと『どこもやってくれない、どうしよう、きっちゃん退院できるのかな』なんて話してて。ちょこちょこ面会に来てくれてた松丸さんが、そんな話をずっと聞いてくれてたんですよ。
それで彼女、『私がやるよ』って言ってくれたんじゃないかな。昔から困ってる人を放っておけない性分だから」

そうして、きっちゃんが生まれた翌年の2016年に「にこり」が生まれた。
現在も当時と変わらず週6日、にこりはきっちゃんのお宅を訪問している。

「毎朝9時になったらにこりさんが来て、1日が始まるんです。1時間半してにこりさんが帰ったら“よしやるぞ”って気合を入れるみたいな。にこりさんが来ない日は、夫と二人で朝からきっちゃんのケアしてお風呂に入れて、ごはんの用意して、他の家事もやって…、気づけばあっという間に昼なんですよ。にこりさんが手伝ってくれたらそれが1時間半で終わるんです。おかげで自分たちの時間や、きっちゃん・ややちゃんと遊ぶ時間ができる。助かりますよね、ほんとに。」

だが、こずえさんはにこりをただ単に「助けてくれる存在」だとは考えていない。
「よく言うんですよ。“にこりって二人羽織みたいだね”って。にこりの看護師さんたちはやり方を押し付けるんじゃなくて“主体はお母さん”って方針で、『お母さんどうしたい?どうしたらいいと思う?』って、一緒に考えてくれるんです」

障がいの種類や程度も子どもによって違うが、医療的ケアのやり方も、家庭によって、あるいは病院の指導によって異なる。例えば痰を吸引するためのチューブの管理方法一つとっても全く違うのだそうだ。「にこりはその管理の仕方も、各家庭に合わせてくれてる。それって大変だと思うんですよ」

にこりがあくまで「主体はお母さん(家庭で主にケアを行う人)」としていることに、梢さんは深く賛同している。その理由を、緊張した表情で話してくれた。

梢さんときっちゃん

「今まで何度かあったんですけど、私が一人でいる時にきっちゃんが急変して。風邪が原因で痰がつまって窒息状態になって…数秒で顔が紫色になってきて、やばいってことはわかるんだけど、その時には何が原因なのかわからない。だけど救急車呼んでも間に合わないってことはわかって。痰がつまってると想定して、痰をやわらげるネブライザーって霧状のお薬を吹きかけて、押し出すためにアンビューバッグ(手動で空気を送り込む医療機器)を押して、また薬を吹きかけてアンビューバッグ押して…って何度か繰り返したら痰が動いた感触があったんで、急いでとって。少し余裕ができた隙になんとか主治医の先生に電話をかけたら『痰をとれるだけとって、人工呼吸器の設定を変えてつなぎ直してください』って指示があったのでその通りにやって、何とか持ち返した、ってことがありました。もう無我夢中で」

梢さんはきっちゃんの急変に対応するたび主治医や医療機器を管理する会社に相談し、自分の処置は正しかったのか、もっと良い方法がなかったかを考え、それを糧にしてきたのだという。

「子どもが急変した時に看護師さんがいればいいんですけど、24時間いてくれるわけじゃないですもんね。毎日来てくれる看護師さんに任せきりにしてたら、いつかそれを後悔する日がくるかもしれないと思って。だから二人羽織みたいに、手が足りない時にもう一つの手が出てくるようなにこりの存在が、自分にはありがたいなって思ってるんです」

そんな緊張感と隣り合わせの生活の中で、桝田夫妻が”もう一人子どもを”と思えたのはなぜだろう。
「きっちゃんのケアの多さとか、ケアしてる時に下の子が何かやったら…とか不安はあったんですけど、松丸さんが『大丈夫、どうにかなるよ』って言ってくれたのは大きかったですね。それに、きっちゃんを診てくれている病院の先生たちも本当に優しくて。迷ってたけど産んじゃおう!っていう気持ちになれました」

ややちゃんが生まれてもちろん大変なことはあるけれど、微笑ましい時間が増えた、と梢さんは言う。
「きっちゃんのケアをしてる時、ややちゃんが真似するんですよ。『きっちゃんだいじょうぶー?』とか話しかけたりして」
ややちゃんがいてくれることで、時に張りつめてしまいそうな家の中に、やわらかい風が吹き込んでいる。

梢さんときっちゃん

桝田夫妻は、きっちゃんにできるだけ色んな体験をさせてあげたいと考えている。車でのお出かけ、旅行にだって何度も行った。泊まりがけは最初は大変だったが、何度もやっていくうちに準備や宿泊施設に確認すべきことがわかってきて、今は慣れたものだという。それでも夫婦だけでは難しいこともある。

「海に連れて行きたいねって行ってみたことがあったんです。だけどバギーが砂浜の上を進まなくて。バギーを置いていくためにはきっちゃんを抱える人、機械を持つ人、荷物を持つ人も必要だし、二人じゃ無理だったんです」
その話を聞いたにこりは「じゃあ、にこりと一緒に海に行こう」と提案し、夫妻が願った「きっちゃんの海水浴」を実現することができた。

しかしなんと言っても梢さんが嬉しかった出来事は、ディズニーランドへの家族旅行だ。
2019年、桝田家は「医療的ケア児とディズニーへ行こう」という、医療的ケア児が全国各地からディズニーランドに集合する企画への参加を、にこりから提案された。
それまで車での家族旅行で経験値を積んできたが、公共の交通機関、しかも飛行機での移動は未経験。それでも提案を受けた時には「やったー!きっちゃん、ディズニー行けるよ!」と家族で大喜びしたそうだ。「飛行機とか暑さの心配はあったけど、やってみて勉強になりました」と梢さんは振り返る。

「航空会社って障害者用の窓口があって、飛行機に乗る前に何度もやりとりするんです。バギーのサイズとか、どんな機械を持ち込むのか、その機械のナンバーは…とか細かい確認があって。それにやっぱり人手がいるってことを実感しました。荷物は多いし、きっちゃんのバギーを押す人に、ややちゃんの面倒をみる人も要る。にこりの手がなかったら、家族旅行に“きっちゃんを連れて行かない”という選択肢もありうるわけじゃないですか。だけど家族みんなで行けたんです。乗り物に乗れたんですよ。次またどこかに行こう!って、勇気が持てますよね」

梢さんときっちゃん

桝田家のお供をさせてもらったにこりにとっても、この旅は貴重な経験となった。飛行機にどうやって乗るかという検討から、各所への調整、専門家への相談、あらゆる場面を想定しての準備…万全に整えていても、それ以上のことを学んだ旅だった。

通常ならば、子どもを海へ連れて行くことも、公共の交通機関を利用してどこかへ旅行することも、すこしの準備があればできるだろう。けれど子どもに障がいがあったり医療的ケアを要するとなれば、家族は交通機関を利用することや、外出すること自体も躊躇する。

にこりは、医療的ケアが必要な子どもたちとご家族のささやかな日常を支えたいと考えている。にこりが「家族みんなで出かけたい」「子どもを笑顔にしたい」という、親たちの願いを叶えるお手伝いをすることは、その一つの手立てだ。

「ディズニーランド、何に乗れたんですか?」と尋ねると、梢さんはその時の記憶をひっぱり出すように「なんだったっけ…そうそう『イッツ・ア・スモールワールド』!」と言った。

ディズニーランドの『イッツ・ア・スモールワールド』は、数十名の人たちがボートに乗るアトラクション。
世界中の民族衣装を着た子どもたちの人形が「小さな世界」を歌う、そのハーモニーを聴きながらみんなで世界一周を旅するというものだ。家族であのボートに乗って、そこに集まった色んな人たちとともに旅をした。それは幸せな思い出として、きっちゃんとややちゃんが忘れてしまってもずっと、梢さんとゆうきさんの心に残ることだろう。

梢さんときっちゃん

にこりは「子どもの願いを叶えるチーム」だ。
安全を担保した上でそれを実現するにはどうすればいいか、家族と一緒に頭を悩ませるのもにこりの仕事。
松丸はいつも「にこりは大したことをしているわけじゃない」と言う。一緒に考えたり調べたり、時にはただそばにいて見守ったり。スムーズにいかないことも沢山あるけれど、「ほんの小さなことが、その子や家族にとって一生の思い出になることがある。その子の思い出の隅にいられるのがにこりの喜び。幸せな仕事をしているなあって思う」

医療的ケアを必要とする子どもたちとその家族のささやかな日常、小さな世界を守るために、にこりは今日も尋ねるのだ。
「お母さん、どうしたい?」と。