A Story of
Smiles = Nicori

vol.3 「まゆちゃん」前編

まゆちゃん

2010年2月、まゆちゃんが生まれたときのことを尋ねると、母親である井上直美さんはつい最近のことのように語り始めた。

「生まれた瞬間のやわらかい、やさしい泣き声を聞いて、ああ、女の子なんだな…って実感がわきました。まゆは手足の指が、誰に似たのかほっそりしてて。まあかわいいっていう感じで。細すぎて、わたし“折れないかしら”って心配で」

兄のゆうまくんが生まれて4年後のまゆちゃんの誕生。名前をつけたのは父親の真二さんだ。
「夫がね、お兄ちゃんとずっと仲良くつながっていられますように、って『ゆうま』をひっくり返して『まゆ』って名前にしたんですよ」
優しくほほえむ直美さんの様子から、井上家のみんなにとって、それはそれは幸せな記憶として心に刻まれていることが伝わってくる。

まゆちゃんは華奢な体でお母さんを心配させていたのがうそみたいに、活発で運動が得意な女の子に成長していった。

「とにかく体を動かすのが好きで、公園にちょっと大きな子向けの遊具があるでしょ、そんなのにも平気でのぼっていったり。幼稚園にお迎えに行くとうんていにずーっとぶらさがってたり。負けず嫌いで、喜怒哀楽が激しくて…将来どんな子に育つんだろう?って」

まゆちゃん

そんなまゆちゃんに変化があらわれはじめたのは、小学校に入学した年の夏ごろだった。それは「今思えば」というような小さな変化だった。

「なんだかあんまり笑わなくなったなって、最初は。歯が生えかわる時期でもあったし、あんまり口を開けたくないのかなって、当時はそれほど気にしてなかったんですけど」

それから、運動神経のよかったまゆちゃんが時々転ぶようになった。連絡帳に書く文字が乱れてきた。外に遊びに行くことが減り、「頭が痛い」と学校を休みがちになった…「熱を出すわけでもないし、学校に行きたくなくて仮病を使ってるのかな。小学校1年生によくある心の病みたいなものかな」と、直美さんは心配しながら、仕事を休み続けるわけにもいかず、一日休ませては次の日に登校させるような状態を続けていたという。
じっくりと原因を探るほどのきっかけもないまま、季節は冬になっていた。

まゆちゃん

年を越した1月のある日のことだ。
兄・ゆうまくんの体調が悪く、まゆちゃんも起きられないというので一緒に学校を休ませた。小児科へ行ったところ、まゆちゃんを見た医師に「顔の半分がすこしこわばってませんか」と指摘され、すぐに精密検査ができる病院を紹介してもらい、検査を受けることになった。

「MRIを撮るまでの待ち時間に、先生が娘の顔の前に人差し指を立てて『目で追ってみて』って左右に動かしたんです。そしたら、片方の目が動かなかったんですよ。先生も驚いた顔をされていて。検査をする前にもう“よくないことがあるんだ”って思いました」

MRIの画像を見せられた瞬間、まゆちゃんの頭のど真ん中に大きな腫瘍があるのが分かった。直美さんは衝撃で泣き崩れてしまったという。その後、大学病院で再検査をし判明したのは「脳幹グリオーマ」という聞き慣れない病名。そして、余命一年と告知を受けた。

脳外科の医師に「この病気は、脳の神経がたくさん集まっているところを真綿でしめつけるような病気で、世界中どこに行っても根本的な治療法はありません」と説明された。直美さんはすぐに仕事を辞め、まゆちゃんに付き添うことを決めた。母の悲壮な覚悟をよそに、まゆちゃんはとてもうれしそうだったという。

「入院するからしばらく学校はお休み、学童も習いごとも行かなくていいよと言ったら『やったー!』って。笑 私とずっと一緒にいられることもうれしかったんだと思います」

それから放射線治療が始まった。治療が始まってすぐは嘔吐などがあったけれど、薬でそれを抑えてからは、みるみる元気になっていくのがわかった。見つかった時に5cmあった腫瘍が、3.5cmまで小さくなり、まゆちゃんに笑顔がもどってきた。治療後のリハビリでは、病院の階段を1階から10階まで駆け上がるまゆちゃんを、大人たちが「待ってー!」と追いかけるほど元気になっていたという。

3月に退院し、まゆちゃんは2年生の春からまた小学校へ行けるようになった。
「5月の運動会ではかけっこで一番になったんですよ。“先生、治らないって言ってたけどあれ嘘じゃないの?”って思ってしまうくらいでした」

まゆちゃん

放射線治療後の体調が良い期間のことを「ハネムーン期」と呼ぶ。
そのころ、主治医に<メイク・ア・ウィッシュ(難病と闘う子どもたちの夢を叶えるボランティア団体)>を紹介され、井上家は家族みんなでディズニーランドに旅行することができたという。まゆちゃんは旅行中も、その後の夏休みも活発にすごした。家族がまゆちゃんの病気を忘れそうになるほど、充実した日々だったそうだ。

放射線治療を受ける時に医師に言われたのが、治療の効果は半年ということだった。
その言葉どおり、ちょうど治療が終わった半年後の9月、再発の兆候があらわれることになる。

「担任の先生から電話がかかってきて、『まゆちゃん、しゃべり方がちょっと気になります』って言われて。たしかにすこし滑舌が悪くなっているような感じはしました」

そして数週間後、まゆちゃんが突然「左手が動かしにくい」と言い出した。その数時間後にまゆちゃんが嘔吐したとき、直美さんは「再発」を認めざるをえなかった。その衝撃は、元気になった姿を見たからこそ、大きすぎるものだった。

「これから何が起きるのか、怖くて怖くて、夜も眠れないほどでした」

医師に再発したことを報告すると、症状を和らげるぐらいしか打つ手はないと言われた。治療法が見つかっていない病気なのだから、しかたのないことだった。

まゆちゃん

話はさかのぼり、放射線治療が終わって経過観察を行っていた5月ごろのこと。

主治医に「今のうちに訪問看護を探して、慣れさせておいてください」と言われた直美さんは、困り果てていた。子どもの訪問看護ができるところなんて聞いたことがない。どうやって探せばいいのかもわからなかったのだ。

そんな時、元同僚に「夕方のニュースで小児の訪問看護ができたって紹介されてたよ」と聞いた直美さん。すぐにネットで連絡先を調べ、電話をかけた。その電話を受けたのが、にこりを立ち上げて間もない松丸実奈だった。

「うちの子、小学二年生になったばかりで、余命一年って言われてるんですけど…って話したら、松丸さん電話口で泣いてるんですよ。“この方になら任せられる”って直感的に思いました。それで、まずは遊んでもらって一緒に過ごすところからスタートしたんですよね」

そのころのまゆちゃんは、まだ麻痺などもなく学校にも歩いて行けていた。「まわりの小学2年生の子たちと何も変わらない、元気な女の子だった」と松丸は言う。

再発し、麻痺が始まった9月末からは、「どうやって学校に行こう」「どうやってお風呂に入ろう」「車椅子はどうしよう」など、まゆちゃんの生活の中の課題について、一つずつにこりと直美さんとで知恵を出し合っていった。にこりが学校に同行し、先生たちとの話し合いに加わることもあった。

平日の入浴介助と、週末のデイサービスを利用していたまゆちゃん。

「言葉がうまく出なくなって意志疎通が難しくなってからは、“あいうえお”の文字盤を使って指さしで伝えてもらうんですけど、なかなか伝わらないと拗ねて。最後には『ばかばか』って口パクで言うんですよ。お互いつらいし、イライラしてましたね。そういう悶々とした時間の中に、にこりさんが夕方『にこりでーす!』って来てくださると、救われた…って気持ちになりました」

松丸はこうふり返る。

「まゆちゃんとは何度も一緒にお風呂に入ったんだけど、一度、急遽訪問してお風呂セットの用意がないのに『一緒にお風呂入りたい』って言われたことがあったの。『えっ、裸でもいい?』って言ったらまゆちゃん、『いい』って頷いて。笑 裸のつきあい、ってお母さんも笑ってくれてたな。ゲームもいっぱい一緒にやったし、子どもらしい、陽気な時間を過ごせたかなって思ってる」

直美さんも、にこりとまゆちゃんの思い出を教えてくれた。

「娘はアイスが大好きで。入退院の送迎もにこりさんにお願いしてたんですけど、そのときに必ずと言っていいくらいアイスクリーム屋さんに立ち寄ってくれてくれてたんですね。デイサービスを利用した時にも、にこりのある岡垣町から家までの途中に新しいアイスクリーム屋さんができてたりすると、そこに行ってくださって。にこりでクリスマスパーティーをしてくださった時には、娘が大好きだった病院の先生を招いてくれたり。そういう、子どもが喜ぶことをね、常に考えてくださってるのはにこりならではじゃないかな。なかなかできることではないですよね」

まゆちゃん

再発後、まゆちゃんのできないことが少しずつ増えていき、食べ物も飲み物も喉を通せずむせてしまう…そんな状況で、直美さんはまゆちゃんに放射線の再照射というリスクの高い治療を受けさせることを決意する。

「こっちの病院では難しいと言われたので、再照射の実績がある大阪の病院で受けることにしたんですが、わたしも怖くてしかたがなかったんですよ。だけど、娘の病気がわかってからずっと自分なりに情報を集めてきた中で、この治療を受ければ元気になるとまではいかなくても、”今より絶対良くなる”って思えたんです。それに、今、食べれない飲めない、何も楽しみがないような状態よりも、何かしら味わえたり、そういう楽しみがあったほうが…最期まであったほうが、娘のためにはいいんじゃないかって思ったんです」

松丸は、医療者としての当時の葛藤を思い出していた。

「にこりとしては、できるかぎり親御さんの意向に寄り添いたいと思ってるし、“こうするべき”とか“こうしたほうがいい”というのは言わないように心がけてる。だけどどうしても急変のリスクを考えてしまって、お母さんに『大阪行くのやめたほうがよくないですか?』って言ってしまいそうになった瞬間はあった。でもやっぱり言わなくてよかった。まゆちゃん、あの治療のおかげでまた立ったり、好きなものを食べられるようになったりしたんよね。やっぱりお母さんってすごいなーって」

お母さんの思いに応えるかのように、まゆちゃんは食事がとれるようになり、車椅子から立ちあがることもできるようになった。8月に大阪の病院を退院し10月に亡くなるまでのあいだ、すこし元気になった体で過ごすことができた。